LINDA―赤―LINDA―赤―目的地まで二ブロック、という信号待ちのタクシーの中から、 彼女を見かけた。 おそらく、隣に坐っているサっちんは、気づいていない。 一瞬、伝えることを躊躇った。 大ぶりの黒いストールを、わざと大雑把に首回りに巻きつけ、 夜の繁華街を颯爽と歩いている彼女の姿に、 私にはないものを感じたからだった。 秋の冷たい風のせいで、ビルや店頭のネオンが鮮やかに浮き上がっている夜にあっても、 彼女は太陽の匂いを漂わせていた。 羨望に似た表情の自分に気づき、誤魔化すように口火を切った。 「あの子」 「ん?」 「…匡(まさ)ちゃんじゃない?」 云った後で、わざとらしかっただろうかと、サっちんの横顔を覗き込んだ。 「どこ?」 彼は、信号とは反対側を見ている。 「眼の前の横断歩道。ほら…」 「おぉ…」 本当に驚いた眼をして、身をわずかに乗り出した。 その視線を確かめるようにボンヤリと見つめる。 でも、私の気持ちは、彼にも自分にも優しくない。 会話がそれ以上続いて欲しくない想いと、その先を話して欲しい想いが対立していて、 私は次の言葉を見つけられずにいる。 どんどん進んでいく彼女の姿を、彼は途中まで半ば眩しそうに見つめていた。 眩しそうに。 それがわかる時点で自分が厭になる。 もう、彼とは終わったはずなのに、何故、 いらぬ嫉妬心が湧きあがってくるのだろうか。 「いいの? 行っちゃったじゃん。誘ったら?」 「いいよ。最近あんまり連絡とってないしね」 「…ふぅん」 サっちんは嘘が下手だ。 いや、そうではないだろう。 完璧な嘘をつかないだけ。 嘘が嘘であることを匂わせることしか云わない。 嘘をついている自分と、嘘をつかれた相手が共犯者になるような嘘。 彼がそういう人間であることをあらかじめ自分で振れて回ることで、 楽なレッテルを作り上げてしまう。 それはとてもズルいやり方だった。 完全に騙してくれた方が、幸せなことだってあるのに。 恋愛で裁判沙汰になったら、サっちんはきっと、確信犯で有罪確実になるに決まってる。 時々、本気でそう思う。 彼女。 匡ちゃんと彼は、三週間や一ヶ月に一度の割合で逢っている。 目撃したのでも、間接的に訊いたのでもない。 直感。 この直感がまた厄介で、今でも私を苦しませる。 好きでもない男に対して、直感など働きはしない。 どうでもいい人間にそれほどセンサーは張られていないのだから。 ちょっとした行動や言葉のニュアンスで、全体が透けて見えてしまうのは、 好きな証拠としか云いようがない。 彼女と初めて会ったのは、一年半前の冬。 札幌ではまだまだ雪の頃だった。 イベントの仕込みの現場に、別件で彼と話をしに来たのが匡ちゃん。 深いグレーのパンツスーツのインナーに、紺色のタートルネックセーターを着て、 右手に濃紺の仕立てのよいトレンチコートを、左手に大きな封筒を抱えて、 何十時間もむさ苦しく淀んでいた会場の入口に立っていた。 全体の位置を確かめるように会場内をゆっくりと見回し、 サっちんを見つけたその子は、近くで作業していたスタッフに声をかけた。 「齋藤さん、お客さんっスよ」 「?」 営業の人間と図面を見ていたサっちんが、声のする方へ顔を向けた。 彼の眼に浮かんだのは、仕事仲間に対して向けられる、労わりと謝罪の微笑みだった。 彼女もまた、同じ柔らかさで微笑む。 「悪いね、本当はこっちが行かなきゃなんないのに」 「いえ、ここも見てみたかったので。凄いですね、なんか」 「徹夜なんだけどね。明日の昼には完成する予定」 「大変」 「いつもだから。仲村、悪い、ちょっと外すわ。とりあえず照明の位置だけ変更しといてくれる? 調整はまた明日できるからさ」 「オッケー」 道内企業の年末イベントの総合ディレクターを務める傍ら、 その他にもいくつかイベントやプロモーションをかけもちしている彼のもとへは、 ここ二~三日、様々な人間が訊ねてきていた。 イベント会場となるホールの隣にあるホテルに泊りこみでの連日作業で、 相当疲労が溜まっているはずだった。 でもそれは、他の仕事をぶっちぎる理由にはならない。 その日、三十分ほどしてサっちんと戻ってきた彼女は、 その後しばらく現場の仕事を見学して帰って行った。 そしてイベント終了後、ごく親しい仲間うちでの打ち上げの席に彼女が参加した。 それだけだった。 彼さえ何も云わなければ、彼女とは楽しい関係を築き、 面白い仕事ができたかもしれなかった。 「今つきあってるんだ」 「は? 誰と」 「今までいた子と」 彼にしては、少し酔いの回った声で揚々と話す。 テーブルの下でその左手は、私の右手を握りしめていた。 周囲の視線を避けるようにして。 「サっちんもおっさんになったね~」 傷ついて空いてしまったわずかな会話の間を埋めるように、笑い飛ばした。 「どう思う?」 「…その質問、間違ってるけど。そうだと思った」 二人の関係に対する確信は、例によって直感で気づいていた。 けれど、勝手な思い込みかもしれないと云い訊かせてもいたのだ。 それを強く明確に否定したのは、彼、その人だった。 何をどうしたくて、そんなことを私に云うのだろう。 「訊いてどうすんの? そんなこと」 「理由はないんだけどね」 サっちんは罪のないテンポで話しながら、眼は前を見つめている。 彼の親指が、私の右手の甲を軽くなでた。 次の瞬間、厭な予感が胸を遮ぎる。 かき消そうとしたけれど、猛スピードで膨れ上がる疑問に、逆らうことはできなかった。 周囲に訊こえないよう、声を低くする。 「まさか、云って…ないよね。…私とのこと」 返事が返ってこない。 腹立たしい気持ちが、言葉にならずに喉の奥で渦巻いている。 それなのに落ち着き払った自分の態度が、妙に非現実的で、 まるで他人のことみたい。 「馬鹿じゃないのサっちん。…匡ちゃんなんだって?」 云う方も云う方だが、訊く方も訊く方だ。 「同じこと云ってた。そんな気がしてたってさ」 そのあとにホテルへ行った日のことを私は、たぶん忘れられないだろう。 ひどく乱暴な夜で、言葉はひとつも交わさなかった。 交わせなかった。 感情を無視したセックスをするとき、私は無言になる。 行為以外のことは何も考えなかった。 そうしないと、サッちんと寝ることができなかったし、 どうしてそこまでして寝たのかさえ、よく覚えていない。 嫌悪感に襲われて眠った明け方の、シーツの温度。 彼によって下された、彼女との距離。 そして、思い出すのも悲惨な、屈辱。 たぶん、自分の気持ちを確かめたかったんだと思う。 これからどうしたいのかを。 その日以来、彼女とは会っていない。 どんな顔して会ったらいいというのだろうか。 教えて欲しい。 一度、匡ちゃんから夏に、携帯に電話がかかってきことがあったけれど、 私には出ることができなかった。 彼女の考えていることも理解できない。 彼を好きである、好きであったという事実が紛れもなく自分の中に横たわっているのに。 そこまで割り切ることは、できない。 三十五にもなって大人げない態度だとは思う。 けれど私には、感情や趣味、時間と同じような感覚で男性を共有することはできない。 それでも、さっちんの性格や恋愛遍歴を考えれば、 特段に珍しい展開でもなかった。 でもやっぱり、彼女とは駄目だった。 私と似ているからかもしれない。 私と彼はつき合っているという関係ではなかった。 クライアントである会社にいた私が、 イベント専門プロダクション所属の彼と出逢い、関係を持った。 そして彼女の存在が二人のあいだに媒介したことによって、 半ば無理矢理に関係に終止符を打って、仕事仲間という、元のさやにおさまった。 それなのに。 結局、私たちがクライアントとプロダクションという関係を 超えられないのをわかっているだけに、必要以上に私は背伸びをして、 大人のふりをしていた。 それが、曖昧な関係を成り立たせていたのだ。 視界からはとうに消えてしまっていた匡ちゃんの姿を想いながら、 これから彼と向かうイベント会場を想像する。 仕事を通してしか、彼との接点を見出せないのは、 幸せなことなんだろうか。 それとも…。 ジャンル別一覧
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